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真田の里の懸造り

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これまで懸造りをいろいろと巡ってみて、戦国〜江戸時代の有名武家である真田氏に縁のある土地に、なぜ懸造りが密集しているのだろう?とずっと思っていた。その謎を解き明かすには、NHK大河ドラマ「真田丸」が放映される2016年をおいて他にない!と一念発起し、特集を組んでみた。真田三代が活躍した戦国時代の所領である長野県上田市と群馬県沼田市、そして関ヶ原の合戦後、真田氏が移封され幕末まで治めていた松代藩(現長野市松代町)にある懸造りを集めた。

真田氏家系図

幸隆(幸綱) 昌幸 信之(信幸)1 ┬ 信吉 ┬ 熊之助  
└ 信利  
└ 信尹 └ 信政2 ┬ 信就  
└ [矢沢] 頼綱   信繁(幸村)   └ 幸道3
 
… 信弘 4 ─ 信安 5 ─ 幸弘 6 ─ 幸専 7 ─ 幸貫 8 ─ 幸教 9 ─ 幸民 10

★ 長野県上田市

瀧水寺 観音堂

瀧水寺 観音堂
平成の大合併で上田市に併合されたものの、ほんの少し前までその名も真田町という自治体があった。幹線道路である国道144号線を走っていると、「真田氏発祥の郷」というデカデカとした石碑の立つ交差点に出くわす。そこから脇道にそれてわずか数分で瀧水寺に到着する。途中の道すがら、遠くからでも岩の上に立つ観音堂を見つけることはたやすい。この寺は真田幸隆の弟である矢沢頼綱によって再建されたものである。

実相院 観音堂

実相院 観音堂
実相院があるのも旧真田町で、しかも江戸時代に真田氏の領地となった松代とを結ぶ新地蔵峠の街道沿い(現在は県道長野真田線)という重要拠点にある。かつては真田氏に関わりのある多くの人々が、盛んに往来したことだろう。

北向観音 薬師堂

北向観音 薬師堂
北向観音のある別所温泉には三つの外湯があり、そのうちの一つ「石湯」は真田幸村隠しの湯と呼ばれている。池波正太郎の「真田太平記」によると、ここで幸村(信繁)とお江が出会ったとされている。

弘法大師堂

弘法大師堂
第一次上田合戦で真田軍は神川(かんがわ)に人為的に洪水を起こさせ、徳川軍を撃退したと伝わる。その神川が千曲川に合流する地点の南岸の絶壁に弘法大師堂がある。なぜこの急斜面にお堂を建てたのかは不明だが、強いて言えば、溺死した徳川軍の供養のためなのだろうか。

美穂須々美神社

美穂須々美神社
先述の神川沿いに存在するのが美穂須々美神社。河岸段丘の上にある社殿の本殿部分だけが段丘崖から迫り出している。東信地方の懸造りは河岸段丘に多いことの仮説として、もともとは平地にあった建物が、浸食されて後退した段丘崖のために、崖に木組みの懸造りを設置した、と考えられないだろうか?

■ 群馬県沼田市

迦葉山 弥勒寺 奥の院

迦葉山 弥勒寺 奥の院
関ヶ原の合戦後、真田信之(信幸)の長男信吉と、その子熊之助と信利が沼田藩主を務めた。迦葉山 弥勒寺は信吉と信利の葬儀に関わっており、境内の一角には信利のものといわれる墓がある。その墓所近くの開山堂から山道を登った先に、懸造りの奥の院がある。

赤城神社

赤城神社
沼田市にある懸造りではあるものの、創建が不明で、懸造り部はごく最近建てられたようなので、残念ながら真田氏との繋がりは皆無と思われる。

◆ 長野県長野市松代町

風雲庵 観音堂

風雲庵 観音堂
松代地域の西の端、妻女山の麓付近にある風雲庵 観音堂。武田信玄の寄進で再建したといわれるのが、かの有名な第四次川中島合戦が行われた永禄4(1561)年であり、このとき真田幸隆(幸綱)と昌幸親子が武田軍で参戦している。再建当時は別の場所にあったらしいが、現在移築されているのは、ライバルの上杉謙信が布陣した妻女山の真下というのが、何やら因縁めいている。

離山神社

離山神社
離山神社は松代の中心部、旧真田邸のすぐ近くにある。創建の時期と諏訪大社系の神社というところから、こちらも武田信玄の影響なのかな?

竹山稲荷神社

竹山稲荷神社
この竹山稲荷神社は、まさに真田氏が建てたものだった。信之(信幸)、信繁(幸村)の甥にあたる信就がもともと江戸屋敷に祭っていたものを、その養子である信弘が第四代松代藩主に就く際に、江戸から松代へ遷座させたといわれている。

虫歌山 桑台院

虫歌山 桑台院
以前、松代地域の懸造りを風雲庵 観音堂から順に四つ周ったときは、この虫歌山 桑台院まで約2時間強といった所要時間だった。急いで巡ったわけでもないのだが、それほど狭いエリアに密集しているということだろう。
松代の懸造りに共通するのは、石垣+梁間一間という造り。別に懸けにしなくても、石垣までで上屋の基礎としては支えられていると思えるのに、わざわざ一間分だけ迫り出している。やはり何かこだわりがあって、懸造りにしているのだろうか。

清水寺 観音堂

清水寺 観音堂
現住所は松代のすぐ隣の長野市若穂地区だが旧松代藩の一部だったので、境内にはいくつかの六文銭が見られる。 かつては壮大な伽藍が広がっていたようだが、大正5(1916)年の保科大火でそのほとんどが失われてしまった。 奥院の観音堂は、現在、鉄筋コンクリートの懸造りだが、かつては木造だった。 坂上田村麻呂が寄進していたりと、正当な清水系といえる。

年代真田一族の出来事真田の里+千曲川流域の懸造り
(※印は現存)
千曲川流域のその他の寺社
1500〜1549年 天文17(1548)年 上田原合戦(幸隆(幸綱))文亀元(1501)年 赤和観音 創建
※永正年間(1504〜1520) 弁天窟 創建
永正年間(1504〜1521) ◆離山神社 創建
※天文年間(1532〜1554) 小菅神社 奥社 再建
天文13(1544)年 ◆虫歌山 桑台院 創建
※永正11(1514)年 ★前山寺 三重塔 建立
※永正12(1515)年 新海三社神社 三重塔 再建
1550〜1599年 永禄4(1561)年 第四次川中島合戦(幸隆(幸綱)、昌幸)
天正13(1585)年 第一次上田合戦(昌幸、信之(信幸))
※永禄元(1558)年 布引観音 再建
※永禄年間(1558〜1569) 鼻顔稲荷神社 建立
永禄年間(1560年代) 厄除観世音 創建
永禄4(1561)年 ◆風雲庵 観音堂 再建
 
1600〜1649年 慶長5(1600)年 犬伏の別れ(昌幸、信之(信幸)、信繁(幸村))
 第二次上田合戦(昌幸、信繁(幸村) VS 信之(信幸))
 昌幸、信繁(幸村)が九度山へ配流
慶長19(1614)年 大坂冬の陣(信繁(幸村))
慶長20(1615)年 大坂夏の陣で信繁(幸村)が討死
松代藩(沼田領含む)初代 信之(1622〜)
沼田領二代 信吉(1616〜1634)
沼田領三代 熊之助(1634〜1638)
沼田領四代 信政(1639〜)
※元和2(1616)年 北向観音堂 建立
元和年間(1620年代) 厄除観世音 再建
 
1650〜1699年 松代藩初代 信之(〜1656)
松代藩二代 信政(1656〜1658)
松代藩三代 幸道(1658〜)
沼田領四代 信政(〜1656)
沼田領五代 信利(信直)(1656〜1658)
沼田藩初代 信利(信直)(1658〜1681)
延宝6(1678)年 ◆離山神社 再建
※元禄5(1692)年 ◆風雲庵 観音堂 現在の地に移築
※元禄7(1694)年 高山寺 三重塔 再建
1700〜1749年 松代藩三代 幸道(〜1727)
松代藩四代 信弘(1727〜1736)
松代藩五代 信安(1737〜)
※元禄15(1702)年 赤和観音 再建
※享保8(1723)年 ◆竹山稲荷神社 恵明寺境内に遷座
※宝永4(1707)年 江戸幕府の命により、幸道が善光寺 本堂を再建
 以降の御開帳時の回向柱を松代藩から寄進
1750〜1799年 松代藩五代 信安(〜1752)
松代藩六代 幸弘(1752〜1798)
松代藩七代 幸専(1798〜)
※宝暦・明和年間(1751〜1771) 長楽寺 観音堂 建立
※天明3(1783)年 ★実相院 観音堂 再建
※天明6(1786)年 厄除観世音 再建
※寛延4(1751)年 真楽寺 三重塔 再建
※天明・寛政年間(1781〜1800) 貞祥寺 三重塔 建立
1800〜1849年 松代藩七代 幸専(〜1823)
松代藩八代 幸貫(1823〜)
※文化文政年間(1804〜1829) 岩井堂観音 再建
※文化6(1809)年 ★北向観音 薬師堂 再建
※文化13(1816)年 ◆離山神社 再建
※天保・弘化年間(1830〜1847) 長楽寺 月見殿 建立
※天保6(1835)年 ◆虫歌山 桑台院 再建
※天保7(1836)年 如法寺 観音堂 建立
※天保13(1842)年 ★瀧水寺 観音堂 建立
※弘化4(1847)年 金比羅神社 神楽殿 建立
 
1850〜1869年 松代藩八代 幸貫(〜1852)
松代藩九代 幸教(1852〜1866)
松代藩十代 幸民(1866〜1869)
※文久元(1861)年 ブランド薬師 再建
※慶応2(1866)年 山内稲荷社 創建とも
 

真田の地に懸造りが多い理由を改めて整理してみよう。
まず、現存する懸造りが建てられるのは、17世紀末頃からとなる。 日本各地の他の懸造りと比べてみても、近代に集中して建てられた、新しいものであることがわかる。 よって、一般的な懸造りの由来である、製鉄民説や修験道説は当てはまらない。 17世紀末といえば松代藩三代目幸道の時代だから、真田三代が活躍した戦国の世も遠い昔だ。 この頃の特徴として、信濃三十三観音札所(霊場)が整備されたり、 現在も国宝として残る善光寺本堂が松代藩の出資により、再建されたことが挙げられる。 善光寺信仰、観音信仰が泰平となった世に庶民にまで広まるにあたり、 懸造りも多く建てられたといってよいだろう。
ではなぜ、この地に懸造りが必要だったのか? 真田の地に加えて、千曲川の上流から下流にかけても懸造りが多いのだが、 信濃三十三観音の3分の2以上が存在する北信、東信も千曲川流域である。 特に佐久、小諸、上田は河岸段丘の地域であり、その地形を巧みに利用した城下町が残っている。 また、千曲川ではないが、沼田も河岸段丘で有名な土地だ。 真田氏は戦国時代の戦法や城下町の整備の仕方から、 利水治水が得意だったことがいえ、 その伝統が後世にも残ったのだろう。
加えて、千曲川はたびたび氾濫して 多くの死者を出したという記録が近世まで残っているし、 同様に浅間山も噴火を繰り返している。 信仰のよりどころだけでなく地域住民が集う場所としての神社仏閣は、 そんな災害を受けにくい立地、構造として建てられるべきであり、 その結果が懸造りだったと考えると納得がいく。 千曲川右岸に懸造りが多いのは、浅間山をはじめとする上信越の高い山々が東側に位置していて、 扇状地や段丘がそこに広がっていたからだろう。 懸造りではないのだが、浅間山麓の群馬県側にある鎌原観音堂は、 天明3(1783)年の大噴火の際、生死を分けた石段として有名であり、 既に観音堂は高台に建てることが常識だったことがわかる。
信之の時代に遡るが、九度山に流された昌幸、信繁から仕送りを求められた際、 浅間山の噴火に伴う所領(上田〜沼田)の復興を優先したため、 財政が苦しく、なかなか工面できなかったといわれている。 大河ドラマ「真田丸」は、そんな信之が領民のことを思いながら、 共に生きる藩主となっていくシーンで締めくくられている。